ニート in パリ - 行けっ森蔵!

偶然フランスはパリに移住することになった30代女子の生活。なぜか画家のベルト・モリゾに惹かれている。

(ハウツー) 留学しないで日本国内で英語を身につける方法_その2

私が実施した学習法(と習慣)

 

1. NHKのラジオ英会話を小5から大学一年生まで毎日聴き続け、毎日書き取り・音読の時間を取る(30分〜)。中学2年生くらいまでは、レッスンの会話(ダイアローグ)を暗記していた。
2. 英検を年一回ずつ受験し、2級までとる。
3. 大学生で英語部(ESS)に入部し、他大学の学生とのディスカッションに参加する(月二回ほど)
4. 英語部の週末観光ガイドの活動に参加する(月一回ほど)
5. 大学の専攻は英語を使う科目にする(言語学西洋史学)
6. 上記の間、洋楽を聴きまくる。英語の歌詞と和訳を確認、好きな歌は歌う(自分の人生のアンセムにする)。
7. 洋楽で歌える歌はカラオケでも歌う。
8. 洋画も積極的に見る。金曜・土曜・日曜ロードショーの洋画が大好きだった。

 

英語学習回想録 – 高校生〜大学生


基礎英語と熱血指導の祖父のお陰で基礎が身についた私にとって高校英語はすごく簡単だった。むしろ私が実感したのは国語力のなさである。高校の英語の教科書は難解なドキュメンタリーや論文を英語で読ませるようなもので、内容は高校生にとってあまり面白くないし、やたらと一文一文が長いので、文法もさることながら、分かりやすくかつ直接の意味から外れないようにするさじ加減がよく分からなかった。よく世の中で、映画の字幕での日本語が英語と比べると誤訳だと言われることがあるが、少ない文字数の中で文脈も考えながら自然な日本語にしようとするからだろう。高校英語の長文和訳もそれくらい柔軟に和訳しても良いのに、直訳だと不自然、でも意訳だと外れすぎ、と判断される。そもそもそのさじ加減を調整するための日本語の語彙力が、国語が苦手な私にはなかった。英語はまだ好きだったし貴重な得点源だったけれど、和訳ばかりで疲れてしまった。この時期はNHKの英会話入門を聞いていた。かの有名な遠山顕先生の番組である。英会話入門の後は毎年遠山顕先生の講座を見つけては聞いていたように記憶している。ダジャレが大好きな私は遠山先生の授業が楽しくて仕方なかった。


高校の友達とカラオケに行くと、全く空気を読まずに洋楽の歌を歌いまくっていた。洋楽に陶酔していたのである。仙台駅に行くと必ずHMVに立ち寄って最新の洋楽アルバムを聴き漁ったり、フリーペーパーのインタビューを読んだりした。本屋では洋楽や洋画雑誌を買って、流行りのアーティストや俳優たちのインタビューをチェックした。私の高校生の時代は丁度ロックが流行っていて、アヴリル・ラヴィーンが新人アーティストとして出てきたり、リンキンパークがロックとヒップホップを融合させたり(今でもメテオラのアルバムの表紙を覚えている)、アイドルとしてはディズニーのドラマに出ていた(らしい。両親がケーブルテレビを入れてなかったから仙台では見れなかった)ヒラリー・ダフがヒットしていたり。ブリトニー・スピアーズはもうポップの定番になっていて、キャリアとしてはノリに乗っていた時代。ノラ・ジョーンズが新人として出てきていきなりグラミー賞を取りまくったり。

NHKの基礎英語で耳を鍛え、ラジオ英会話の音読や学校の授業の音読だけなく、洋楽を歌ったりしていた私は自然に発音も鍛えられた。やはり「好きはものの上手なれ」か。

 

高校生時代に英語圏への憧れが爆発し、仙台の高校がアメリカのデラウェアの高校と春休み限定の交換留学をすることに決めた時は真っ先に応募した。今まで私の高校から不合格になった学生はいなかったようだが、なんと落ちてしまった。担当者との面談はなかったような気がするのだが、何が原因で落ちてしまったのか。私の後の回には知り合いの女の子が合格していた。ただ単に高校英語の先生に好かれていなかったとか、そもそもその回はなくなったとか、大人の事情か。

 

高校時代に世界史の授業が大好きで、世界史も受験科目として味方につけ望んだ大学受験ではありがたいことに東京にある志望校に合格。模試では最後までC判定だったので、合格は絶対無理だと思っていたが、一旦やってみて失敗するほうが、やらないで後悔するより良いと思った。もし一般受験で落ちたら、論説文で受験しようと、国語の先生が文章を添削してくれるのをよいことに、どんどん提出した。この時に初めて私の文章力や国語力そのものに対する苦手がなくなった。「勝ちパターン」(得点が取れるパターン)が見えたのである。普段の国語の授業では何を理解すれば良いのか掴み所がなく(黒板には教科書の文章と先生が文章と文章を結びつける矢印がたくさんあり、まるで難解な近代の抽象アートを見ているみたいだった)、進研ゼミの受験対策講座では多少文章の構造を捉えるやり方は分かったけれど、どこをどうすればできるようになるかがはっきりしないと思っていた。論説文を自分で書いて手を動かして自分の頭で考えることで、なんとなくどう書けば良いか・どう文章を理解すれば良いかがわかるようになった。

 

国語も味方につけ、志望校にも合格し、前途洋々と大学生活を迎えるも、大学での英語の授業レベルは高校時代のレベルに及ばず、先行の言語学は英語のなりたちを教えるばかりで、自分には合わないのを感じ絶望。「あんなにガリ勉したのに、待っていたのがコレかよ」と友達に頻繁にこぼし、私より大人でかつ人生に冷めている友達からは「大学なってそんなもんだって」と慰められるが、慰めになっていない。大学生は必修科目数を埋めるために授業を選択するが、その中でたまたま履修した世界史の授業がものすごく面白く「私が求めていたのはこれだ!」と思えた。英語は好きだけど、英語を知りたいのではなく、英語を使って何かしたいのである。世界史の先生たちはユルい人間関係で成り立っていたが、先生同士はお互い尊敬しあっているようで、後々考えると外資系企業の人間関係のようなドライな空気感だ。イギリス史の先生に転籍したい旨申し出ると、フランス史の先生がお世話してくれるからと言われ、フランス史の先生に手続きをしてもらった。詳しくは覚えておらず、恩知らずな私である。

史学科に転籍してからは、特に卒論前は英語論文を読み漁った。受験で国語力をつけたと自信満々な私は、卒論では中世のイギリス教会建築の歴史をテーマにすることにし、ゼミでも英語論文を和訳した概要を発表したが、そもそも根本的に建築を理解していなかったらしく、先生からは「あなたの話は全く理解できない。教職免許とっていずれ先生になるのであればちゃんと理解してから話をしないと伝わらないよ」と酷評された。英語を和訳する際に、そもそもその元の英語の内容が理解できなければ、日本語にしても意味が伝わらないというイタイ教訓だった。

 

大学1年生のころ言語学の学生に紹介されて入部した英語部では、日本人相手だったけれど英語を話す機会ができて大興奮だった。「がんばって合格した大学なんてこんなものか」とグレていた私にワクワクする部活動ができた。月に数回、交流のある大学がそれぞれ自分の大学でディスカッションのイベントを実施すると、関東の80人以上の学生が集まった。1グループ最大8人ほどに学生を分け、決まったテーマで朝10:00ごろから14:00ごろまで会話させた。自分の大学のみならず他大学の先輩たちで英語を上手に話すメンバーがいると良い刺激を受けた。また、大学2年生のころから観光ガイドの活動にも誘われ、皇居の入り口で外国人を「逆ナンパ」し、「英語を勉強したいので無料ガイドに付き合ってくれませんか」とお願いし英語でガイドした。日本IKEAの創設メンバーをガイドした時は事の重大性に気がついていなかったが、後々IKEAが有名になってから「もしやあのグループがそうだったのでは」と思い出しては「サインをもらえばよかった」と思った(笑)。

 

ディスカッションとガイドで英語のアウトプットをすることで鍛えられた私は、英語が話せるようになった。大学の専攻学科でも英語論文に触れることで、長文を苦なく読めるようになった(きちんと内容を理解していたかどうかは怪しい。私は細かいのが苦手なのである!学者向きではないことも悟った)。この時期には世の中ではYouTubeが出始め、大好きな洋楽アーティストや洋画の俳優のインタビューやライブがインターネットで観れるようになった。気がついたら字幕のないインタビューをそのままYouTubeで見ていた。気がついた時、静かな感動を覚えたのを覚えている。英語ができるって最高だ!