ニート in パリ - 行けっ森蔵!

偶然フランスはパリに移住することになった30代女子の生活。なぜか画家のベルト・モリゾに惹かれている。

パリでのニート生活2日目

 3月21日朝9:30ごろ家を出る。

 セーヌ川沿いに語学学校まで散歩。グーグルで調べると1時間17分とのこと。

 道に「アンケートにご協力お願いします」と言って物を盗もうとする若者が複数いて怖い。美術館を過ぎてセーヌ川に行くとそもような若者も少なくなる。

 夫の足が速くて息が切れそうになるも、最近多少走っていたから大丈夫か。

 すごく天気が良い。

川沿いの雰囲気はゆったりしていて良い。

 走っている人や自転車に乗っている人、観光している人がバランスよくいる。

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 1時間17分という距離で、どんどん風景が変わる。都市の中はにぎやか。

 語学学校のエリアは黒人や浅黒い人がいて正直ちょっと怖い。まあ肌の色については多少自分の偏見もあるかもしれないけれど。白人の人たちだって自分より3倍くらいの体の大きさで威圧感を感じるし、、、こんな場所に私一人で本当に通えるのだろうか?学校に一番近い駅を夫が検索してくれ、駅を探索。

 クレープ屋さんでランチ。ルーブル美術館のすぐ横ということもあり、メニューに英語表記があるのと、店員さんとの英語は多少通じる。おかずクレープ(そば粉のガレット)、デザートクレープ、ドリンクで11ユーロとのこと。ちょっとお得か。
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 ランチ後はオランジュリー美術館を目指してルーブル美術館の庭園を横切る。オランジェリー美術館の前の行列を見、夫、並んで見るほどでもない、とのこと。

 グーグルマップ上にピエールエルメラデュレが出てくるので、行ってみることに。ピエールエルメはケーキがなかったので、何も買わず。ラデュレ途中に英語の本を置いている本屋さんがあり、英語好きの私はホッとする。ラデュレは菓子パン、マカロン、ケーキの揃え。マカロン4つとケーキ2つ、夫はクロワッサンとパンオショコラを買う。


 そこから電車に乗って帰る。方角や乗り換えが大変そう。これ、本当に一人で乗れるのか?プラットフォームで「スリに気をつけるように」というアナウンスが日本語で流れるも、どっち方面の電車か等の音声アナウンスは皆無。しかも、まるで行き先が放射線状になっている渋谷駅の駅前みたいに、電車の行き先も途中で枝分かれして様々。使う路線の終点の駅(複数)をいちいち覚えていないといけないみたい、、、

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 夕食はトマトのオイルパスタとカマンベールチーズ、ラデュレのパンを少々。

 デザートはラデュレで買ったいちごのミルフィーユとピスタチオのサントノレ。

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 ここまで聴くと、一般の人と比べると大食い気味にも見えるかもしれないが、日本ではさらにポテチとかナッツとかも食べてた。

 日本にいる時よりは食べていないのに、胃が重い。硬水のせいか?空腹時やシャワー上がりに飲むと、(硬水の水道水が)どろどろ胃から腸に流れていくのを感じる。硬水とか軟水とか、あまり神経質にならずに飲むようにしていたけれど、ここまでくると明らかに重い。

 夫のおすすめで水道水を凍らせて多少、硬水に含まれるミネラル分を落としてみることにする。なんとなく気持ち悪いから、煮沸もするけど。

成田から飛ぶ!そしてパリ初日

 3月19日:ついに飛ぶ!

 イスタンブール経由のターキッシュエアラインでシャルル・ド・ゴール空港へ。

 直前に実家に数日泊まっていたので、溢れた荷物を多少実家に置いて、手荷物軽減を図ったものの、登山リュック、小さめのリュック、ショルダーバックを持つことに。

さらに母がいただきもののクッキーを「飛行機の中で食べれば?」と持たせてくれる。嬉しい!ので断らなかったが、荷物がまた増えた、、、

ギリギリまで詰め込んだので全ての荷物が重い。特に小さいリュックの肩ひもが甘い作りで、前に抱えてもするする落ちてきてしまう。手で持つと最強に重い。滋賀の実家から成田空港までの旅程で、乗り換えや携帯解約等の作業をするために駅から歩くとすぐにへばってしまう。

結局、ターキッシュエアライン のカウンターで20000円程追加料金を払って(スーツケース2個に加えて)登山リュックを手荷物預かりに。ここでリュックのポケットに入れていた靴ベラとは空の上でさよならすることになる。

 

  21:40成田空港発の便。

 さすがターキッシュエアライン、食事のレベルが高い。が、ちょっと胃の調子が良くなく、若干貧血気味に。ビールを飲んだのが悪かった?隣の席で体調を崩したオバ様を見て影響された?

 

  現地時間3月20日朝10:00ごろシャルル・ド・ゴール空港に夫が迎えに来てくれる。

 タクシーでまずはアパートへ。夫に鍵の使い方(鍵を回してもドアが開かない!)を教わる。

 近くのカフェで昼食。

 周りのスーパー散策。

 エッフェル塔周辺を散歩。この日の天気はどんより。

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 1時間ほど昼寝をした後、近くのスーパーやDIYショップにも行ってみる。

 夕食は夫のいつも通りのトマトパスタ(市販のソース)、フランスパン、チーズ。

 不慣れなフランス式シャワーを浴びて、20:30には倒れるようにベッドへ。

 しかし!外が工事の音や人の話し声で最強にうるさい。耳栓をして寝る。

 

 気がついたこと:

 近所のカフェのお兄さん達は感じが良い。ネット上で「カフェ店員が感じ悪いのがフランス」と読んでいたので嬉しい。

 

 水道水が硬水でミネラルたっぷり。ネットによるとフランスの水道水は飲んでも大丈夫とのことだが、コップに水を汲んで飲んでいると中にミネラル分が浮いてくる。ううう。

 

 バスタブの蓋がちゃっちい。この蓋を外さないと髪の毛が詰まって流れが悪くなる。

 

 洗面台の蛇口から出る水の勢いが均等じゃない。レバーを下げると水が出るが、下げる角度を間違えると(手を洗う用の蛇口なのに)自分の体全体で水を浴びることに。さらに出る水の角度が斜め上向で、なぜか二股。細心の注意が必要。

 

 トイレにウォシュレット欲しい、、、

 

 セントラルヒーティングで室内が暑い。タンクトップ&短パン必至。

 

 夜22:00ごろに寝ようとすると外の騒音がすごい。
 昼間にアパートにいても騒音がすごい。ゴミ収集車?なぜかコンスタントに工事の音が聞こえる。アパートに防音力がなく、道を行く人々の声も丸聞こえ。


 早朝4:00 – 7:00 は騒音フリー。いえーい!山鳩やほかの鳥の声も聞こえる!!

怒涛の引越し作業

<パリ出発までの生活>


 2019年1月〜引越し作業=地獄

 

 千葉のアパート引き払いが思っていた以上にハード。

 引越しにあたり、

「捨てるもの」

「パリに持って行くほどではないもの=実家行き、もしくは人にあげる」

「パリに持って行くもの」

に分けた。

引越し作業を始めて初めの数週間は大胆に使わないもの(や、コンマリ式に「ときめかないもの」)をどんどん捨てていった。が、使えるのに捨てるのはもったいない、という思いにとりつかれ、捨てるたびに罪悪感に悩まされる。そのうち捨てる作業に疲れを感じ「捨てる」という選択肢がほぼ消滅、物を

「実家に送るもの」

「パリに持って行くもの」

に分けることに。口癖は「だって全部ときめくんだもん」。

書類整理(ビザの書類、銀行や社会保険関連、レシートなど)は後回し。
海外の引越し便は飛行機または船便なので、業者の扱いは手荒いらしく、大切なものは入れない方が良いらしい。

また、液体や食品は詰め込めないらしい。

ということは、アクセサリーや食品(スパイス等)を好きでたくさん持っている私は、結構な量を手荷物(=スーツケースもしくはボストンバッグ、もしくは登山リュック)に入れることになる、、、

 

 

 2019年2月下旬〜仕事の激務さが加速


 ただでさえ、日経企業に勤めていた時代の3倍以上の業務量なのにもかかわらず、引き継ぎ作業によって業務逼迫。そもそも上司が後任の採用活動を私が退職する3週間前に始めたため、引き継ぎ相手がいない状況。私が引き継ぐ相手が決まったのも退職2週間前。そこから私が3年間で積み上げた業務を2週間で中国の先輩、その部下とアメリカの同僚に引き継ぐ作業が開始。最後の一週間はビザ申請のための1日有給以外は会議室に缶詰で引き継ぎ内容を喋りまくり。18:00に会議終了後、夜22:30まで通常業務。死んだ。

 

 

 2019年3月14日 アパート引き払い日は涙涙


 粗大ゴミ(物干し、ステンレスの棚、プラスチックの衣装ケース、布団など)を一つずつアパートの部屋から運び出す。

しみじみ。

そして就職した後自分の貯めたお金で1人暮らしを始めた際に買ったIKEAの布団を荷物紐で束ねた途端。

ううう。

涙腺が弛む。

ゴミステーションに出した瞬間、号泣。

捨てたくなかった。でもパリのアパートは家具付きだったし、独身対象の限られた予算の引越しパックでは詰め込めなかった。掛け布団だけ自費で郵送も考えたが、圧縮しても大きなボリュームだ。

仕方なかった。

でも、でも、やっぱり捨てたくなかった。自分で買った布団だ。新卒時代にパワハラまがいの指導を受け苦しんだ時も、お客さんにこっぴどく怒られた時も、先輩にいじめられた時も、上司不遇の時代も、全部受け止めてくれた布団だ。インフルの時も風邪の時も一緒だ。

どんな時もずっとそばにいてくれた布団だ。

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涙が止まらなかった。

 

 その日の午前中は水道、ガス、電気の立会いと最後の支払い。

 最後まで溢れてしまった荷物を実家や祖母の家、パリに郵送。スーツケース2個はすでに前日に空港へ郵送。

午後はアパート管理会社の人の立会い。最後に残った重い荷物を引きずって、祖母の家へ。

 

 

 2019年3月15日〜3月19日 実家住まい


 息抜き、書類整理、最後の雑貨・洋服整理。

 考えてみたら、スーツケースでないと液体を運べないのでは(飛行機の機内持ち込みはできないのでは)と、かさ張る中途半端に残った化粧水や洗顔料は実家に置いて行くことにする。最後まで着ていた大事なレザージャケットはフランスでも着たいので持っていきたいのだが、リュックの中でかさばるし、すごく重い、、、。母に手伝ってもらい、100円ショップの圧縮袋に詰めて何とか登山リュックの底に押し込む。

パリにお引越し

 夫が今年2019年1月下旬から本格的にフランス転勤になった。

私には願ったり叶ったりだ。子供の頃はパティシエに憧れ、代官山の製菓学校ル・コルドンブルーの製菓過程に通ったこともある(自分の貯蓄/お父さん、ありがとう)。そして2年ほど前に銀座と青山にあるワイン学校のアカデミー・デュ・ヴァンの基礎課程にも通った。Novaでフランス語もやった。フランスという国にかなりお金を落としている。夫にどうするか聞かれた時「これはついていくしかない!」と二つ返事で誘いに応じた。そのため、夫からは「ボクと一緒にいたいからじゃなくて、ワインと食事のために着いてくるんでしょ?」と言われる始末。うーん、よくわかってるね!(え)
 問題は、12年付き合っている夫とは法律的には結婚していないということ。私と夫は今流行りの事実婚だ。いくらシステムが進んでいるフランスでも、厳密には妻ではない私は配偶者ビザで滞在ができない。会社員としての就労ビザを狙って、自分の職場の中でフランス支店転籍や、Linkedinで仕事を探して転職をはかるも不発。そこで職場の元先輩のアドバイスに従い、まずは語学学校に入学して学生ビザで滞在することにした。もちろん、夫の会社から海外転勤の補助金は出ないし(結婚すれば出るらしい)、夫の会社が負担する引越し費用も家族プランにしてもらえなかった(結婚すれば出るらしい)。就職してから約10年、会社員生活から引退したらカフェを開こうと貯蓄に励んでいたが、その貯蓄を切り崩して引越し&学校に入学だ。
 かくして私は外資系での激務な生活に別れを告げた(アメリカ人の同僚は「今まで相当苦しんだんだから、(中指立てて)”Bye, mother fuckers!”ってみんなに言って辞めればいいね!」と言っていた)。ネット上でフランスにいる日本人が書いたブログを探すと、ワーホリのイケイケの留学生や、フランス人と結婚したマダムの話が多い。私の場合、フランスでの生活は(ノリノリの若い留学生の生活や、イケメンフランス人に支えられる優雅なマダム生活と比べると)ひょっとしてちょっと特殊なケースかも?


 今後は当ブログでフランス生活で楽しいことや苦しいことをざっくばらんに語っっていく!

 

さよなら白米!

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さよなら桜!

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(よもや話)正月飾りについて - あけましておめでとうございます

  夫のいない1ヶ月に1人生活を満喫していたところ、昔は物を飾るのが好きだったことを思い出した。自分の部屋に物がいっぱいだった子供時代、母にインテリアが好きだ、インテリアデザイナーに憧れると言ったら「自分の部屋を見てごらんなさいよ。これで自分にセンスがあると思う?」と一蹴された。たしかに私の実家の子供部屋はたくさんものがあふれていたが、子供のおこずかいで親が設置したあまり好きでない机や棚を捨て、家具を買える・変えることができるはずがない。まったく、子供の夢をつぶすヒドイ母である。
ただ、確かに、少なくとも母には物を飾る才能がある。インテリアにほとんど興味がない夫も、私の実家の飾り立て方には感心しており、母のセンスを褒めていた。母が置物各種を配置すると、まるでオレンジページに掲載されるようなナチュラルかつちょっとかわいい部屋になるのだ。
  父が自分の夢である一軒家を建てる際、内装は母に任せたようなのだが、母は部屋の壁紙や窓のサッシ、お風呂の内装など、多数の部品から良さそうなものを選ぶ作業は大嫌いだったとのことだ。「あんなにたくさんの中から選ぶなんて、そもそも完成した様子がイメージできないし、疲れてしまう」と言っていた。「私にとってはワクワクするような作業だ!やらせてほしかった」と冗談交じりに言うと「代わりにやってほしかった」と言われた。しかし、母がいかに嫌がっていたとしても、母の手がけた内装は無印良品のようなベージュトーンのナチュラルさとで遊び心があり(トイレはピンクの花柄壁紙・浴室はブルーのストライプの壁紙)、かつ温かみがある。どうやらインテリアデザインの才能もあるようである。
  母の性格自体はサバサバしていて、甲高い声は大きく刺さるようで、気がつかずに言いたいことをズバッと言ってしまうような人だ。ただ逆に人にはっきりものを言われると傷ついてしまう。そんな母の繊細な部分が出るのがインテリア装飾・デザイン、洋服の着こなしと手紙である。本人は自分のセンスが良いことも、自分の中の芸術家が繊細でかつ可愛らしいことも全く気がついていない。

 

  そんな母に才能がないと言われても、私はインテリアショップが大好きだ。IKEAはおしゃれなモデルルームがたくさんあって、夢のようである。気に入った部屋はそれごと買いたいくらいだ。クリスマスが過ぎて気持ちが毎年落ち込むのはどうしてかと考えていたら、今まで正月飾りには力を入れていないことに気がついた。ネットで検索すると100円ショップの正月飾りに100円ショップのアイテムを追加して手作りの正月飾りを作るのが数年前から流行っているようである。楽天で買えばいいやと安易に検索し始めたら一点5000円以上するではないか!では、ということで、ネットに出てきた記事を見様見真似で(リンク先をクリックしても作り方は出てこなかったので)、下記の飾りを作ってみた。

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紫のリース部分は最寄りのスーパーで入手し、花は全て100円ショップのものである。
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(ハウツー)留学しないで日本で英語を身につける方法_その4

私が実施した学習法(と習慣)

1. NHKのラジオ英会話を小5から大学一年生まで毎日聴き続け、毎日書き取り・音読の時間を取る(30分〜)。中学2年生くらいまでは、レッスンの会話(ダイアローグ)を暗記していた。
2. 英検を年一回ずつ受験し、2級までとる。
3. 大学生で英語部(ESS)に入部し、他大学の学生とのディスカッションに参加する(月二回ほど)
4. 英語部の週末観光ガイドの活動に参加する(月一回ほど)
5. 大学の専攻は英語を使う科目にする(言語学西洋史学)
6. 上記の間、洋楽を聴きまくる。英語の歌詞と和訳を確認、好きな歌は歌う(自分の人生のアンセムにする)。
7. 洋楽で歌える歌はカラオケでも歌う。
8. 洋画も積極的に見る。金曜・土曜・日曜ロードショーの洋画が大好きだった。

9. 英語を使う仕事を選んで、積極的に使っていく。

 

英語学習回想録 – 社会人(3社目~4社目)

 

契約社員といえど、また、一次受けヘルプデスクとはいえど、 ある程度の知識が必要な通信業界企業のヘルプデスクオペレーターになるのはワクワクした。担当サービスの知識だけではなく、 実際にケーブルやサーバーの構成図が見れるのだ。しかしすぐに機械知識の壁が立ちはだかった。 幼い頃からの何でも「なぜなぜ」 と理由を問いたくなる性格のせいで、 ただですら訳がわからない通信機器やケーブルの仕組みの複雑さ・分かりにくさが加速した。最初の3ヶ月の研修はキツかった。 隣りの部署のテクニカルサポートから異動してきた女性が基本的なところが分かっていたので、同じタイミングで研修を始めた私の理解不足が目立った。 英語応対どころではなかった。夜勤シフトもそのうち入ったが、 そもそも英語の問い合わせが少なかった。 そつなく問い合わせをこなして一人前、 といった雰囲気を持つこのヘルプデスクでは「○○さんの△△ の案件の対応は良かったね」 なんてポジティブなフィードバックは滅多にもらえない。正直、 ちょっと味気ない仕事だ。
しかし、なぜかヘルプデスク、 テクニカルサポートを含めたサポート部門で英語力を重視する気風 があり、部門内で高いTOEIC点数を持つ社員に、 部門内で英語の先生をボランティアでやってくれ、 というお達しが出た。私も手を上げ、5人ほどの年配男性を教えた。 個別指導時代に逆戻りだが、面白かった。 ちゃんと実際のTOEICで成果が出た人もいたのは良かった。


入社6ヶ月後に転機が訪れた。人事で新卒採用を拡大したいが、 人が足りないというのだ。契約更新のタイミングで声がかかり、 受理。実は同居人と「人事で社員教育に関わる方が向いてるよね」 と話していたところだったのだ。でも、 人事で英語に関わることはできるのだろうか?

人事の仕事は、新卒採用のイベントの手伝いや面接調整から始まった。そのうち、中途の営業採用のイベントの手伝いや面接調整もやるようになった。中途のイベントでは、使っている採用エージェント向けのイベントもやっていた。日系エージェント編と外資系エージェント編と分けてやっており、外資系エージェント向けでは(やっと)英語を話す場面ができた。その際、営業採用の長を務めていた年配の男性より「あなたは結構人と話せる人なんだね!特に英語を話していると輝くね!」と言われた。もちろん英語を話している自分の姿を録画することなんてなかったので輝いているかどうかなんて自分ではわからない。英語好きなのがにじみ出ていたのだろう。

その後、新卒が入社してからは新卒教育のトレーニングメニューのスケジュール調整をしたり、朝礼・夕礼の運営をしたりした。各部門長の中には外国人もいたので、講話の調整の際に英語でのやりとりが発生した。考えてみると英語を使う機会はそれくらいだった。

元々学習塾で働いていた経験があったため、新卒教育では学習塾での失敗や、社会人になりたての頃の失敗を生かして教えた。それまで契約社員である私にあまり興味がなかった人事部門長から声をかけられるくらい好評で、キャリアとしては絶好調、これで正社員として雇ってもらえるかも!と思っていたところに不運が訪れた。イギリスはロンドンの通信会社から買収され、部門整理とコストカットが始まったのだ。2000人程の社員数に採用担当を含め15人以上の人事がいたため目をつけられ、契約社員は契約満了とされた。私や他の契約社員の代わりには業者を雇って仕事をさせるようになった。辞めさせられたのは人事で1年務めたタイミングだった。

 

次は絶対に人事で正社員になりたい!と採用エージェントを使いまくるが、どの案件も会社の事業内容がイマイチだったり、採用担当の目が厳しすぎたりして、うまくいかない。ヨーロッパもしくはアメリカ人で、かつ、男性だとウケが良いようだが、日本人を含めたアジア人女性の採用担当にはことごとく落とされる。別の方法を探さねば、とLinkedinでIT企業の人事の仕事を検索、良さそうなものには応募し始めた。3社ほど応募し待っている間、一次面接が決まった。採用担当の若い女性はシンガポール英語の訛りがきつく、何を話しているかあまりよく分からなかったが、合格。二次面接ではAPAC(アジア太平洋地域)の人事部長が出てきて面接。これも女性だったので緊張していたが、人事部長が時間を勘違いしていたらしく、結果的に30分遅刻してきたため、採用担当とのやりとりで緊張も吹っ飛んだ。厳しい顔だったが、人間性を問うような質問が多く、もしかすると、本当に厳しい人かもしれないが頑張れば認めてくれるような人かもしれないと思った。この会社はクラウドプラットフォームの提供やクライアントとのペアプログラミングを教えたりする、今の時代のITの先端を行くような会社。契約切りにあった前職ではサーバー・ケーブル系だったが、ITの基礎知識を習うたびに「これからは仮想化・クラウドの時代」と聞いていた。絶対にこの会社に受かりたかったので、最終面接から実際のオファーが出るまで2~3週間ほど待たされたが、待ち続けた。オファーが出る直前に日本支店の営業部長と面接。想像したよりかなり若く、いかにも外資系なテキパキとした論理的な話し方・また良いルックスだった。秘書の人はいわゆる外資系によくいる、高飛車でチャラい化粧の濃い綺麗なお姉さんではなく、落ち着いたナチュラルメイクの可愛らしい雰囲気の年上の女性。今まで受けて落ちてきた大半の会社の受付のお姉さんは(私が共感できない)チャラいお姉さん。今回は違う。これはいける!と思った。その後、ついに正社員で採用された。

(ハウツー)留学しないで日本で英語を身につける方法_その3

私が実施した学習法(と習慣)

1. NHKのラジオ英会話を小5から大学一年生まで毎日聴き続け、毎日書き取り・音読の時間を取る(30分〜)。中学2年生くらいまでは、レッスンの会話(ダイアローグ)を暗記していた。
2. 英検を年一回ずつ受験し、2級までとる。
3. 大学生で英語部(ESS)に入部し、他大学の学生とのディスカッションに参加する(月二回ほど)
4. 英語部の週末観光ガイドの活動に参加する(月一回ほど)
5. 大学の専攻は英語を使う科目にする(言語学西洋史学)
6. 上記の間、洋楽を聴きまくる。英語の歌詞と和訳を確認、好きな歌は歌う(自分の人生のアンセムにする)。
7. 洋楽で歌える歌はカラオケでも歌う。
8. 洋画も積極的に見る。金曜・土曜・日曜ロードショーの洋画が大好きだった。

9. 英語を使う仕事をまずは日系企業から始める。

 

英語学習回想録 – 就職活動〜社会人(2社目)

 

英語ができるって最高だ!と、すっかり英語ができる気分になった私。その当時は輝いていた。。。

飲食店でのアルバイト経験が数ヶ月しかなく(体育会系の職場に馴染めなかった&ミス多発)、時給の高い学習塾の個別指導や家庭教師ばかりやっていた私は就職活動で大失敗。結局家庭教師をした経験を生かし学習塾就職にトライ、6月に合格して晴れて社会人になれることになった。周りはもうすでに就職先を決めている中、かなり焦った選択だった。

私の就職した学習塾では、担当が文系講師と理系講師に分かれ、私は文系講師になった。私の教え方は学習塾のスタイルに合っていないし(6人の新卒とのトレーニングでは一番下の成績)、世間外れだし、そもそも英語圏の文化に浸っていたので性格も日本人の新卒学生らしさがなかった私は(要は、へりくだることを知らなかった)、仕事ができるようになるまで相当苦労した。それでも私の社会性のなさは英語能力とは全く関係がなく、英語は私の味方でいてくれた。英語の授業は下手だったけれど、英検のテキストに沿って教えたり、(英検の)面接練習は得意だ。


最初の社会人生活2年で鍛えられ(ストレスでガリガリに痩せた)、やっと仕事ができるようになった私は、いよいよ英語を使って本格的に仕事をしたくなった。同居人が茨城の工場に就職するのを機に転職。日系IT業界の人材派遣会社に就職、大手通信会社であるお客様先でヘルプデスクオペレーターとして、日英のサービスをすることに。そのお客様は外注ヘルプデスクサービスをB to Bで展開しており、私の就職した会社の6人チームには10顧客ほど担当させていた。もう一つの業者も同じくらいの数の案件を持っており、窓のない、元サーバールームだったという噂のある部屋で夜勤(英語対応)・のちに日勤(日英対応)の担当をした。英語を話せると思っていた私の前にたちはだかったのは、英語が母国語でない国の訛りだった。某銀行のWeb上での海外送金システムのヘルプデスク担当の際は、フィリピン支店の行員さんの英語がひたすら聞き取れない。当時の上司が言うには「こちらから質問して、先方にYes/Noで答えてもらえば良い」。それはすごく効果のあるやり方で(この上司は仕事ができる人だった)、耳が慣れるまでひたすらこちらから質問して内容確認する日々が続いた。NHKラジオ英会話では訛った英語はやってないし、学校教育でもやってないから、聞き取れなくて当然だ!しかし、ものは慣れるもので、次第にわかるようになっていった。
その後、転籍になって、某銀行のシステム改修のプロジェクトマネジメントのお手伝い(=意味のない会議に行員さんに代わって出席する&その他もろもろの雑用)をした。英語から離れてしまい、また、ヘルプデスクで楽しんでいたお客さんとの会話とも離れてしまった。社内調整で顧客先をすぐに変えることは難しそうだったため、転職を決意。やはり私はヘルプデスクが好きだ!だけれど、IT人材派遣では(面白そうだがかなり難しそうな)ITの実際の知識がつかない。英語を仕事で使った経験を生かして、次はちゃんと知識がつくような会社で、できれば外資系企業に転職したい!


複数の外資系転職エージェントと面談。外資系エージェントのハイテンションな営業に慣れていなかった私は英語の能力と仕事での経験を下手褒めされたのを真に受け、次から次へと面接室に現れるエージェントに興奮。次の就職先では、ヘルプデスクを続けたいが顧客先勤務ではなく、その会社の社員としてやりたいと思った。人材派遣時代は、派遣会社の正社員ではあったけれど、自分の会社が業務委託サービスの大方の利益を取ってしまうのか、給与が非常に低かったからだ(税金・社会保険控除後は月給17万円だった)。最終的に、転職エージェントの力を借り、契約社員ではあるものの、某外資系通信会社のヘルプデスクで勤めることになった。